1853年夏にブラームスはデュッセルドルフでシューマンにようやく対面し、シューマンはブラームスの作品出版を急ぎます。
しかしブラームスは、ヨアヒムの冷静な批評も参考にしながら慎重に進めるべく、ライプツィヒの出版社に自ら赴いたのでした。
ライプツィヒとブラームス
ライプツィヒでブラームスは初めての自作品出版を実現し、多くの友人を得、若き日のブラームスは「眩暈を覚えさせる」ほど衝撃的な日々を送るのでした。
楽譜が出版されたものの、ライプツィヒの聴衆はその後ブラームス作品の演奏に対しては冷ややかだったそうです。ハノーファーやゲッティンゲン、デトモルトの聴衆の温かさとは対照的。
ブラームスがライプツィヒライプツィヒを訪れた1853年11月頃はリスト一行も来ていて派手に振る舞っていたそうで、ライプツィヒではそういう方がうけたのかな?よくわかりませんが。
ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社
Breitkopf & Härtel
現存する楽譜出版社としては最も歴史が長いらしいです。ベルンハルト・クリストフ・ブライトコプフがライプツィヒで1719年に創業。1795年にゴットフリート・クリストフ・ヘルテルが会社を継ぎました。
ブラームス作品の出版のために、シューマンは友人のヘルテルさんに手紙を書きました。このヘルテルさんか、息子さんか親戚かはわかりません。
シューマンの「新しい道」の記事やヘルテルさんへの依頼が効果を発揮して、ブラームスは注目を浴びることとなったのでした。
人脈・交流の広がり
ブラームスは、1853年11月17日にはライプツィヒに着き、20日にヨアヒム宛に手紙を書きました。その中で、ヘルテルの他にも色々な人と会ったことを記しています。
例えば、
- ヴェンツェル
- ゼンフ(出版人)
- フリードリヒ・ヴィーク(クララ・シューマンの父)
- ベルリオーズ
- ユーリウス・オットー・グリム(作曲家、グリム兄弟の親戚)
などです。
ゼンフはブラームスの出版に意欲的であったり、ベルリオーズはブラームスのピアノ・ソナタ(ハ長調)を聴いて感激したとヨアヒムに手紙を書いたりと、ブラームスは着々と顔を広げていったのでした。
ゲヴァントハウスの演奏会で演奏
1853年11月29日にブラームスは一旦ハノーファーに戻りますが、12月17日にはゲヴァントハウスの演奏会に出演します。
- ピアノ・ソナタ第一番
- スケルツォ
を演奏し、その3日後、作曲家のグリムと連れ立ってハノーファーを経てハンブルクに戻り、両親にライプツィヒでの成果を報告したのでした。
これは現在の3代目ゲヴァントハウスの入り口。
ちなみにこの記事の冒頭の画像は、ゲヴァントハウス全景です。
ゲヴァントハウスは1781年にオープンした初代、1884年に落成して戦争で廃墟になった2代目を経て、1981年に落成したのが現在のゲヴァントハウスだそうです。
とするとブラームスが演奏したのは、初代で1842年の改修を受けて1000席に増えたゲヴァントハウスということに。この初代ゲヴァントハウスは、ブラームスが亡くなる3年前に取り壊され現存しないそうです。
ライプツィヒゆかりの作曲家たち
ライプツィヒには、
- シューマンハウス
- メンデルスゾーン・ハウス
- バッハ博物館
など、クラシック音楽好きにとっては垂涎ものの観光地がいっぱい。そのうち記事にする予定です。
ライプツィヒ概要
旧東独エリアにおいてはベルリンに次ぐ大都市。
人口は60万人に満たないほどで、大都市とはいえややこじんまりとした印象。
中心部は車が多いけど、クラシック音楽関係のスポットを周るなら歩いて周って楽しい程度のサイズ感がナイスです。
ライプツィヒ観光情報
日本語で読めます。
ライプツィヒの観光情報がバランス良く掲載されています。
ライプツィヒに泊まるなら
私は2012年にライプツィヒを訪れ2泊しました。次回また訪れる機会があれば、できれば1週間くらい滞在したいと思っています。
【ホテルズコンバインド】で見てみたら、ライプツィヒのホテルは100軒以上ありました。
前回は日本を経つ前に多忙な中エクスペディアで普通に探して予約しましたが、お得に宿泊するなら予約サイトを複数比較できるホテルズコンバインドで探した方がいいかも。
次回もきっといつも通り節約旅行なので、価格の安いホテルを中央駅近辺でとって、ライプツィヒの街中を歩き回ります。